世界が揺れた。
瞼を閉じる。
己を支えていた意識が鎖されれば、存在はすぐさま自らを見失う。猶予は無い。
何度も名を呼ばれた。
行かないで欲しいと希うようだった。どうか、あなた。
拡散する意識を必死に掻き集めるその声は、誰のものか。
父であるか、母であるか、きょうだいか、友か、恋人か。
それとももっと別の何者か。
よくは判らない。
よく判らないものの正体を、少しでも引き寄せようと人は古来から名を寄せる。
腐りやすく脆い肉の器の中に潜む得体の知れないモノを魂と名づけ、自らをひとと称し、きみの名を呼ぶ。
妻と呼び夫と呼び子と呼び親と呼び、けれど本当の、まことは見る必要も無い。
ただ目を閉じて、ひとの血脈の中に流れるものを。
父の名を母の名を、祖父の名を祖母の名を、祖父の父の名を、母の名を、かつて存在した魂の名を。
本来還るべき其の場所の名を。
何度も名を呼ばれた。
行かないで欲しいと希うようだった。どうか、おねがいだから。どうか。
けれど本当は、覚醒は罪悪である。
やがてゆっくりとわたしは意識を取り戻し、瞼を開く。
その眼に映るのは淡い紅だ。
薄紅の櫻は幾重にも折り重なり、枝と花の隙間から垣間見る空は晴れて曇る。
櫻の杜の向こう側、景色とは不釣合いににょっきりと伸びるのは木製の古びた電柱だ。
民家らしき屋根が見え、屋根の先には町並みが続いているようだった。
花弁が髪に落ちる、僅かな音すらも静寂の中に良く響いた。
何処に辿り着こうとも、杜は静かで、とてもさみしい。